学長 三浦哲の生い立ち

ソフィー・ジ・アカデミーの学長三浦哲の生い立ちと塾・英会話スクールを立ち上げるに至った経緯を説明しているページです。紆余曲折がありながらも、地道に明るく前に進んでいるつもりです。このスクールをどんな人が運営しているのか興味をお持ちの人は少し覗いてみてください。

出生

1971年7月28日午前5時30分生まれ。体重3400グラム。雪国・新潟県長岡市に育つ。これは2歳の冬。雪かきの手伝い(ジャマ?)をしているところ。 yukikaki

今と比べると雪が本当に多かった。小さかったのもあると思うけどすごく高いところまで雪があったのを覚えている。でもその雪がよかったなあ、と思う。なんというか、もちろん雪は冷たいんだけど、「あたたかい」感じがあった。とにかく雪の中で遊ぶのは最高に楽しかった。

少年野球時代

物心ついたころには野球に夢中になっていた。巨人の王選手と原選手がヒーローだった。これは小学生6年生の時。学校の野球部の練習試合が終わりふざけているところ。

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とにかく野球が好きで、楽しくて仕方がないとき。サードで7番打者。チームは本当に強くて、なんと全国大会に出場。ベスト8になった。将来はプロ野球の選手になると漠然と思っていた。

高校野球時代

高校まで野球は続けた。甲子園に出れたらいいなあ・・・と思っていた。でも、小学校の時に比べてだんだん野球が好きではなくなってきていた。バッターボックスにいるのが自分。この写真の試合が自分にとっての最後の試合。写真の瞬間は確か3回の表で5対1で負けていて、ワンアウト3塁。この後ライト前のタイムリーヒットを打った。5対2。その後5対4まで追い上げたけど、結局追いつけずに負け。自分の野球人生は終わった。

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野球もうこれ以上上手くならないような行き詰まりを感じていたし、一生これで食べていくようなことはない、と分かってしまったから、これで野球はやめようと決めていた。何か別のもので夢中になれるものはないだろうか、と探し始めていた。

日本の大学・山岳部時代

大学ではドイツ語を專攻。そして悩んだ末、山岳部に入部。ホープとして結構期待される。大学入学したばかりのころはバブルがはじける直前で、今考えれば世の中かなりおかしかったけど、当時は世の中がおかしいと感じている自分こそがおかしいんじゃないか、と悩んだ。山登りは、一生趣味として続けられるようなスポーツとして面白いかな、と思ってはじめた。あと、山登る人っていろいろ人生について深く考えていていいアドバイスとかもらえそうな気もしたし。写真は岩登りの訓練をしているところ。ロープワークが結構大変。

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雪山での事故

12月の南アルプス登山中。天気はいいが、気温はマイナス10度。赤い帽子で緑色のヤッケを着ているのが自分。

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なんだかだんだんOBなどに期待をかけられて、ヒマラヤを目指せよ!みたいになっていった。今考えると、別にヒマラヤには興味はなかったけど、周りに期待されることはまんざら悪い気もしなかった。だからだんだん、ヒマラヤを目指すようになっていってしまった。

しかし、ヒマラヤ遠征を計画して、トレーニング登山をしている時に300メートル滑落。そして遭難。2日後ヘリコプターにより救助。入院。手術。やっと治ったと思ったら1ヵ月後、院内感染発覚。再入院。転院。再手術。

という過程を経て、「これはもう山はやめろ、ってことだな。」と解釈し、別の夢を模索。

アメリカ留学時代

登山家の道を断念のあと、結局、高校生のころから興味を持ち始めていたアメリカ留学を決意。なんとなくメディアの影響でアメリカの大学には「理想の教育の場」があるような気がしていたから、それをぜひ体感してみたかった。

専攻はスピーチコミュニケーション学。副専攻はブロードキャスティング。3年間。ケンタッキー州の大学で過ごす。最初の一年は言葉もなかなか通じず大変だったけど、あとの2年間はそれなりに楽しんだ。写真は悪友のジャックと。近くのバーで。

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まあ、いろいろ面白かったし、すごく勉強になったけど、最終的に「理想の教育」はアメリカにもないことが分かった。もちろん、外国で勉強する経験はとっても貴重で、できれば学生のうちに経験しておいた方がいい。だけれども、そこで勉強するのことはあくまでスタートであり、それだけで何かが全て変わるわけではない、ということがよくわかった。当たり前ですが。

サラリーマン時代

日本に帰国後、1年間日本の大学に復帰し、卒業。その後静岡県に本社があった大手進学塾に就職。塾に就職したのはアメリカで学んだスピーチ学を実際の場で試してみたかったから。あとはその会社には「理想の教育の場」のヒントがありそうな気がしたから。しかし、就職してみてすぐにそこにもヒントらしきものはほとんどないように思えた。どこにも「理想の教育の場」がないのなら「自分で作ってしまおう!」と思って10ヶ月で退社。

学習塾オーナーとして独立・起業

1998年2月に全国チェーン学習塾のひとつとして、地元長岡で塾をスタート。「生徒の自主性を伸ばす」といううたい文句に感動してそのチェーン塾を選んだのだが、間もなく本部が閉鎖。何のサポートもないまま自分で経営を続けなくてはいけなくなる。当時は途方に暮れたが、今振り返ればこれが幸運で、このおかげで自分で試行錯誤しながらも独自のノウハウを作っていくことができるようになった。

英会話スクール開始

頼りにしていた本部が潰れ、自分ですべてを経営していかなければいけなくなったが、当時はまったく経営に関する知識も経験もなかった。そこで必死で日本語の経営書を読みあさったが、残念ながらすぐに役立ちそうなものはないまま2年が過ぎた。塾の経営もギリギリの状態が続いた。そんな時、アメリカでネット書店が立ち上がり、洋書を日本から選んで買えるようになった。「英語の本なら経営の参考になるものがもしかしたらあるかも知れない」とワラをもすがる思いで買ったマーケティングの本が「大当たり」。そこに書いてあるノウハウを試していくうちに、上手にチラシを作れるようになり、生徒が少しずつ集まるようになった。

これをきっかけに英語のビジネス本を読み漁るようになる。そこではじめて日本語のビジネス本とアメリカのビジネス本の大きな差を知り、衝撃を受ける。なんとか他の経営者仲間にこの面白さを伝えようと「経営者が手持ちの英語力で洋書をつまみ読みし経営のヒントを得る講座」をスタート。大きな反響を得る。

最初は受講者の英語力をアップさせることに興味はなかったが、受講者から「リーディング力が向上した」「リスニング力も上がった」「スピーキングまで出来るようになってきた」という報告を次々受けるようになり、結果的に「英会話スクール」となっていった。

 

・・・現在に至る。

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