教育の現場をストレスから解放する方法:「興味の力」を利用しよう

【内容の要約】

  1. 「興味の力」は不思議な力
  2. 「興味の力」を学校教育で利用しよう
  3. 「興味の力」を利用するための具体的方法
  4. 「興味の力」を利用すると何が起こるか?

1.「興味の力」は不思議な力

人の「興味」というのは不思議なものである。人それぞれに興味を引かれるものは違い、同じ人でも昨日まで興味があったものに、今日は興味がなくなってしまったりする。なぜだろう?その理由はハッキリとはわからない。

ただ確かなことは、人は興味のないことにはあまり集中できない、ということである。興味のないことを勉強せよと言われて、とりあえず本を開くことはできても、頭にはなかなかその内容は入ってこない。

ところが、人は興味のあることには圧倒的に集中することができる。その集中力には極めて大きな力があり、時にまわりの人の声をまったく聞こえなくすらしてしまう。興味の対象と自分自身が一体化したような気持ちになり、時間の存在すらも忘れさせてくれる。興味のあるものに関する知識は自然と自分の中に流れ込み、覚えようとしなくても忘れられなくなってしまう。

レゴ猫

まだ学校に行く前の子供が、好きな電車の細かい名称を覚えてしまったり、意味もよくわからないポケモンのキャラクターの名前をたくさん覚えてしまったりして、大人がびっくりするようなケースというのはよくある。「興味の力」は絶大で、大人が頑張ってもなかなか覚えられないような事柄を子供の頭でも苦もなく覚えられるようにしてくれる。

2.「興味の力」を学校教育で利用しよう

この「興味の力」を学校教育で利用しない手はない、と思う。

一人一人の日々うつろいゆく興味に合わせて授業なんて到底無理である、と思うかもしれない。しかし、教育の現場にいたことがある人ならわかると思う。興味のないものをやらせることは、極めてストレスのかかることである。興味のないことを誰かに無理矢理やらせることほど、教師の心のエネルギーを奪うものはない。

逆に、興味があることをサポートすることは、多くの教師にとってさほど大変なことではない。相手がやりたいと思っていることをサポートすることには多くの充実感が伴う。物理的な仕事量がたとえ多くなったとしても、意外と「忙しさ」を感じない。そもそも「忙」という字は「心を亡くす」と書く。心を失って行う仕事は少しの量でも忙しいと感じるものだ。逆に心を満たされる仕事は物理的な量が多くても忙しいとあまり感じないものである。

3.「興味の力」を利用するための具体的方法

一人一人の興味に合わせるのは、現実的に不可能だ、と思うかもしれない。しかし、そんなことはない。教師が「授業」をするのをやめればいいのだ。

一人の教師が30人の生徒に対して「授業」をしなければならない、とするのなら、全員の興味に合わせるのは不可能である。なぜなら30人の生徒一人一人の興味はその瞬間瞬間で全部違うからである。たとえ同じ傾向の生徒が何人かいたとしても、そのグループの生徒たちのその瞬間の興味が同じとは限らない。前の日にあった出来事やその人の体調や、ちょっとした友達の一言や、前の日に見たテレビの内容など、様々なことが絡み合って影響し、その人のその瞬間の興味は変化してしまう。

しかし思い切って授業をパソコンやビデオや紙の教材に基本的に任せたら、どうなるだろう?

今は良い教材がたくさんある。ゲームのような算数の教材もたくさんあるし、YouTubeでは丁寧に理科の問題の解き方を動画でアップしてくれているどこかの予備校の先生もいる。紙の教材も実にたくさんある。オンラインで無料で配布しているものもある。さらに日本語の教材にとらわれずに英語の世界まで範囲を広げれば、その選択肢は10倍以上に広がる。(この記事投稿日現在、英語のwebサイトは日本語のサイトよりも10倍以上存在している “Usage of content languages for websites”)20年前に比べればちょっと想像もつかなかったような教材マテリアルの豊富さが今はある。

そういうものを一人一人の生徒がその日の興味によって選べるようにするのだ。たくさんのおススメ教材マテリアルを用意しておき、それらの中から生徒が自分の興味に沿って毎日何をするのかを選べるようにしておくのだ。

ただ子供はやっぱり子供なので、プロの大人、すなわち教師のアドバイスを必要とする。本人はAという教科のBという教材をやりたい、と言っているが、プロの教師から見て次のテストのことを考えると、Cという教科のDという教材をやった方が明らかに良い、という場合がある。そういう場合は、それを相手目線に立って説明してあげる。もしその説明を聞いた上で、「イヤ、それでもAと言う教科のBをやりたい」というのなら、それを尊重する。もしくは妥協案としてC教科のD教材を10分だけやってから、A教科のB教材をやったらどう?と「提案」する。たいていはその教師の説明が理にかなっているものならば「わかった」ということになる。例外的に「イヤ、それでもAと言う教科のBをやりたい」という場合も数%の割合であるが、それはそれで良い。それほどやりたいのならそれをやり続けることで何かは必ず得られる。

4.「興味の力」を利用すると何が起こるか?

こういう方法は、最初、本人が何をしたいかをハッキリさせていくプロセスでは極めて多くの時間がかかる。しかし、一度自分がしたいことがわかり、納得して自分の興味に沿って学習を進めていくと、教師側はあまり手間がかからなくなってくる。最初が極めて面倒なのだが、その「山」を超えると一気に楽になるのだ。

教師はその楽になった時間で、生徒のことをもっと良く見たり、より良い教材のことを研究したり、より良いイベントを練ったり、ということができるようになる。

授業が教師の絶対的な仕事ではなくなると「職がなくなるのでは?」と現職の教師は思うかもしれない。でも、不安に思う必要はない。職はなくならないし、仕事は減らない。確かに、これまで不要でストレスの多かった仕事は減る。でも、逆に必要があり意味を感じられる仕事はむしろ仕事は増える。ただ「本当に意味のある仕事」が増えるわけなので、「忙しさ」は減る。

生徒は自分の興味があることに向かえているときは、心の状態が落ち着いた状態になるので、ストレスが減る。ストレスが減ると問題行動やいじめなども減る。当然教師のストレスも減る。校長先生のストレスも減る。親のストレスも減る。教育委員のストレスも減る。

 

人の興味と言うのは不思議である。どうしてその人のその瞬間にその興味がわき起こるのかはわからない。ただ、「興味の力」は極めて大きなものがあり、それを教育に活かさない手はない、と思うのである。

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